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はぐれくん、おおきなマルにであう
The Missing Piece Meets the Big O
シェル・シルヴァスタイン
Shel Silverstein
村上春樹 訳
NetGalleyJP
米国
わたしは母から褒められた記憶がほとんどない。だからといって、怒られた記憶が多いというわけでもない。
小学生の頃、通信簿を親に見せるのがイヤだという友達がたくさんいた。でも、わたしはそれがイヤだと思ったことはない。わたしの成績は怒られるような成績ではなかった。むしろ褒められる成績だったと思う。しかし母は褒めてくれなかった。「この程度の成績は当たり前だ。わたしの娘なのだから。」といつも言っていた。その言葉は子供だったわたしにとって冷たく響く言葉だったけれど、母はそう思っていなかったらしい。
何十年も後になってから、わたしは通信簿について褒めてもらったことはないと母に話をしたら、そうだったかしら?と言われた。きっと母はそんなことを覚えてもいなかったのだろう。
この間、友達から言葉で傷付けられるのが困るという相談をされた。それは辛いよねという話をしていて、そういえばわたしはそういう目にあったことがほとんどないなぁと思った。それに、周りから「あなたは、あーだこーだ」という事をいわれることがほとんどないなぁと思う。
どこかオドオドしているところが見える人は、他人から突っ込まれやすい。本当は親切心からなのかもしれないけれど、余計なおせっかいは止めて欲しいと思っても、それをきっぱりとイヤと言えない人は、しょっちゅう突っ込まれる。
わたしはいつも堂々としていると言われる。自分では気が付かないけれど、どうもそうらしい。だから行動や発言に突っ込まれることはほとんどない。言われても、それがどうしたと思っている。
こんな性格は母から刷り込まれた「わたしの娘なんだからできて当たり前じゃない」が効いているような気がする。おかげで可愛げのない人になったような気がするけれど、いじめられるよりはずっとましだと思っている。
心屋仁之助「ホントの自分を見つけるラジオ」
第184回 最高の人生の見つけ方!? http://podcast6.kiqtas.jp/kokoroya/ を聞いて思ったことを書きます。
人は自分が求めたものになっていきます。自分は誰からも愛されていないと思えば、誰からも愛されません。自分にはお金がないと思えばお金はどこかへ行ってしまいます。
そんな風に自覚していること以外に、無意識に自分はこうだと信じていることがあるのです。
ホントは幸せになりたいはずなのに、自分は幸せじゃないと思っているのは何故か?それは、自分が幸せになってしまって、違う人生が始まってしまうのが怖いから。今の生活を守りたいからなのです。
今の生活を守りたいから、嫌なことも無理してやって、我慢して、我慢して、休むこともできず、遊ぶこともできず、病気になってしまうのも、自分が求めていることなのです。だって、そこから抜け出そうとしていないのだから。可哀想な、哀れな自分でいる方が楽だから。
そういう人生はイヤだなぁ(-_-;)
つくづく、そう思います。
好きなことをやる。嫌なことはしない。たったそれだけなのよね、仁さん。
昨日、友人が突然訪ねてきました。嫌なことがあって、それが積もり積もってどうにもならなくなったので、クチッていい?というので、「モチロン、いいよ。」となったのです。
それは趣味の集まりでの友達のことです。ある友達(ここではBさんと呼びます)が、ことあるごとに彼女(Aさんと呼びます)に突っ込みを入れてくるのだそうです。
Aさんはこういう所ができていないから、それを直したらいいのにとBさんは言うのだそうです。Aさんとしては、自分は人よりも覚えが悪いから何にでも時間がかかる。だから、まだまだな状態でそういうことを言われたくないと思っているのです。だから「まだ始めたばかりだから、できるようになるまでちょっと待っててね」と答えるのだけれど、次に会った時にBさんからまた同じことを言われるのがイヤになっちゃうというのです。
Bさんに悪気がないのは分かるのだけど、Bさんにとっての正義を押し付けられるので、とても息苦しくなる。それをずっと我慢してるとハゲができちゃうというんです。
Bさんはわたしも知っている人で、とてもまじめな人です。そして、たぶん学習障害がある人です。なので相手に合わせるとか、このくらいにしておこうという加減ができる人ではないのです。だから、止めてねと言われたことに、その場では治すことができても、次に会った時には忘れちゃっているということの繰り返しなのです。
マトモに相手をしていたらAさんの神経が持たないから、ほどほどに相手して、ムカついたら距離を置くしかないでしょ。っていうのが一般論なんだけど、友人関係ってそれだけじゃやってけないのよねぇ。
言い方は悪いけど、相手は病気だと思ってあきらめるしかないんじゃない?そういう人だからって割り切れたら、ずっと気持ちは楽になるんじゃない?
一口に友達っていっても、それぞれ距離感はイロイロだってことを話し合いました。そうだよね、いろんな人がいるんだから、いろんな付き合い方があるのよね。こんなことを言っても大丈夫な人と、大丈夫じゃない人がいるとか、人間関係は難しいねぇ。
でもさ、こうやって色々話したら、かなりスッキリしたよって彼女は軽やかに帰っていったのでした。
今年同い年の友達が亡くなりました。彼の生き様を見ていたら、いろいろと考えなければならないことがあるなぁって思えたのです。
余命いくばくという宣告をされて、でも治療にこだわり続けた彼。ずっと世話をしてきたお姉さん曰く「最後の放射線治療は、かえって死期を早めたような気がする。でも、本人がやりたいっていうから反対はできなかったのよね。」だったのだそうです。
「死にたくない」ということと「残りの日々をどう過ごすか」を考えた時に、少しでもやり残したことをやり遂げようと思うのか、とにかく生きていたいと思うのか、それとも諦めちゃうのか、それは個人の自由なんですけど、自分がそうなったらどうするんだろう?って考えてみました。
わたしは「最後はおだやかな日々を過ごすだけでいい」と思っているので、延命措置のたぐいはすべて断るつもりでいます。こんな治療があるよとか、こんな薬があるよって、言ってくる人がいるでしょうけど、そういう声は徹底的に無視しようと思っています。それは何故かと言えば、どんな状況であれ、その状態を招いたのは自分のせいだから。自分の生き方がそうであったのだから、それをそのまま受け入れていこうと思うのです。
だからこそ、元気な今のうちにやりたいことをやっておかないといけないなって思います。体力がなければ、気力がなければ、やりたいことはできません。
そして、そういう体力・気力が衰えた後、心がけなければいけないのは「お願い上手」になることだと思うのです。何でも自分でやろうってことができなくなったら、誰かにお願いするしかないんです。そこで意地を張ったってしょうがないのにねぇ、みんな意地張るんだよねぇ!亡くなった友人も、両親もそうでした。
自分にできない事は、誰かにやってもらえばいいって、たったそれだけのことなんだけど、意外と難しいのは何故なんでしょうね?
グランデュードのまほうのコンパス
Hey Grandude !
ポール・マッカートニー 文
Paul McCartney
キャスリン・ダースト 絵
Kathryn Durst
いけもとなおみ 訳
NetGalleyJP
英国以前は毎日ブログを書いていた友人が、1月に2・3回しか更新しなくなっていました。
最近どうしたのよ?と聞いてみたら、彼女の知人から自身のブログについて「タダの日記じゃない、そんなのじゃダメだよ!」と言われたそうな。
その言葉が気になって、「ちゃんとした内容のちゃんとした文章を書かなくっちゃ!という思いに囚われてしまって、今までの様に書けなくなってしまったのだと話してくれたのです。
「えっ、ちゃんとしたって、どんなこと?」と聞いてみると、誰かの役に立つような意味のあることを書かなきゃいけないって言われたんだそうです。
ちょっと待ってよ、あなたがこれまで書いてきたことは「くだらない意味のないこと」って言われたの?そして、それを信じちゃったの?
文字に色を付けたり、大きなフォントを使ったりして、無駄な改行を入れて、どっかのブログで見たような形式で書いているのがちゃんとした文章だって言われたわけ?
と聞いてみたら、そうだというんです。
じゃぁ、その人は意味のある役に立つ文章を書いてる人なの?
?
そんな人の言うことを信じて落ち込んでるの?
そうね、誰かの役に立つことって思うと、文章を書くのに時間がかかるの。自分が感じたことを書くだけなら毎日書けるけど、ちゃんとしなけりゃと思うとなかなか書けないの。
そりゃ、勘違いもはだはだしいよ。あなたのブログを読んでくれる人は、あなたが何に興味を持っているのか、あなたがどんなことをしているかに興味があるからこそ見ているのであって、他人行儀な「これがお役に立つ文章でございます」みたいなものには興味を持たないよ。
それにさ、あなたは自分が興味があるものにしか目を向けられない人なんだから、それ以外について書けるわけないでしょ!
あなたがあなたであることをブログという形で表明しているだけなんだから、それでいいんだよ。ブログってのはwebにlogするってことなんだから、何を書こうとブログなんだよ。その内容がどんなものであれ、他人にとやかく言われる筋合いはないんだよ。
自分が興味を持ったもの、何か感じることがあったこと、それをそのまま書けば、あなたに興味を持つ人はちゃんと見ていてくれる。それだけのことだよ。
悩んでいた友人は、ニッコリ笑ってくれました。
そうよね、わたしにはそういうことしかできないもの。自由に書けばいいのよね。
わたしはわたし、あなたはあなた、誰も同じことはできないんだから、わたしはわたしらしくしていればいいのね!
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