『教師 宮沢賢治のしごと』 畑山博
宮沢賢治は大正10年から15年までの間、故郷の花巻の農学校で先生をしていました。著者は当時の生徒たちに取材してこの本を書いています。
取材当時、60年以上前のことを思い出してもらうのですから、それは大変な作業だったと思うのですが、当時生徒だった老人たちは、意外なほど饒舌に宮沢先生のことを語ってくれたのです。
農業(土壌学・肥料学)だけでなく、代数や英語も教えていたというのにはビックリです。そして、その授業の分かりやすかったことを生徒たちはみな、口を揃えて褒めているのです。
他の先生は教科書を読んで、それの解説をするという方法で教えてくれたのだけど、宮沢先生だけは違う。理屈を覚えるのではなく、それをどう応用するかを自分で考えるということを教えてくれたというのです。実技とともに、印象的な言葉で教えてくれたから、今でもちゃんと覚えているし、これまでその知識をきちんと使えてきた。というのです。
お芝居や歌や踊りも教えてくれた。というか宮沢先生はそういうものを学校内でも楽しんでいたというのです。
戦争で南方へ行き、捕虜になってしまったかつての生徒は、重労働でつらかったので、かつて宮沢先生に習った歌を歌いながら働いたのだそうです。その歌を聞いたイギリス軍の将校がビックリして、彼を事務所に連れて行ってコーヒーをご馳走してくれて、屋内の楽な作業に変えてくれました。帰りにはパンも持たせてくれたそうです。
その歌はイギリスの曲で、宮沢先生が歌詞つけたものだったのです。このメロディを懐かしがって優しくしてくれたらしいというのです。こんなところでも宮沢先生に救われたと感謝したそうです。
宮沢賢治のような素晴らしい先生に巡り合えた生徒たちは幸せですね。でも、彼のような自由な教え方が気に食わない人からの圧力があって、わずか5年で教職を辞めてしまいました。その後も元生徒たちの相談にのっていたそうですから、本当にみんなから慕われていたんだなぁと思います。
宮沢賢治は文章を書き、絵を描き、歌を歌い、農業を愛し、自然を愛し、余りある才能があったのに、若くして亡くなった不思議な人だなぁと思いました。
彼こそが風の又三郎だったのでしょうか?
1775冊目(今年80冊目)
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