『バケモンの涙』 歌川たいじ
敗色が濃くなった太平洋戦争。日本は未曾有の食糧難に襲われていた。
橘トシ子19歳。大阪の旧家のいとはんは、国民学校の教師となるが、食料も燃料もなく、生のままの雑穀を食べるしかない子供たちは、消化不良で全員が下痢の毎日。中には栄養不足から感染症などで命を落とす子もいた。
「ええとこのいとはんには、この辛苦はわからない」と、死んだ子の親から冷たく投げつけられる。トシ子は、「子供の命を助けたい。腹いっぱい食べさせたい」と強く願う中で、少ない燃料で大量の穀物が食べられるポン菓子の存在を知る。(書籍紹介より)
わたしが子どもの頃にポン菓子の機械をリヤカーに積んでやってくるおじさんがいました。お米を持って行って、おじさんの機械の丸いお皿のようなところに入れてフタをし、熱を加えて暫く待ち、フタを開けるとポンという音がしてポン菓子ができるので、近所の子どもたちはみんなで見ていました。
わたしの子ども時代には、すでにお菓子の範疇に入っていたポン菓子ですが、トシ子さんがポン菓子を作る機械を作ろうとした頃は、第二次世界大戦中の食糧危機の真っただ中でした。
戦争で食糧難だったという話は随分聞かされましたけど、食料自体よりもそれを炊いたり茹でたりするための燃料が不足していたということは、この本を読んで初めて知りました。熱を加えない雑穀を食べると、大人はまだいいのですが、子どもたちは消化しきれず、体調を崩してしまって、最悪死んでしまう子もいたというのには驚きました。
そんな子供たちのために、ポン菓子製造機を作ろうと考えた19歳のトシ子さんは、覚悟を決めて女ひとり北九州に乗り込み、ポン菓子製造機工場を立ち上げるために奮闘したのです。その行動力には、ただ感嘆するばかりです。
トシ子さんが住んでいた大阪ではかなり酷い食糧難になっていましたが、北九州へ行ったら食料は割とあるし、砂糖やお酒まであるのにびっくりしていましたが、この辺り、わたしは父から似たような話を聞いたことがあります。軍需産業に関わっている所には食料などがかなりあったのだそうです。北九州は製鉄の町ですから、軍関係の仕事をかなり行っていたので、食料などは比較的手に入りやすかったのでしょう。
ポン菓子を製造する機械を作る会社「橘機工」が大きくなっていったのはもちろんですが、戦後仕事をなくした多くの人たちがこの機械でポン菓子を製造する仕事をして生きていくことができたということも素晴らしいことだと思います。
ポン菓子をお願いするときには、お米を持って行って半分の量をポン菓子にしてもらって、残り半分がおじさんの取り分で、そのお米をお金に変えていた時代もあったそうです。確かに、ポン菓子のおじさんにお金を払っているのを見たことなかったなぁって思い出しました。
昭和30年代までは、お米を買うのに米穀通帳が必要だったなぁということも思い出しました。あのころの実家の台所の柱には米穀通帳かかっていました。
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