『花街の引力』 三浦展
なぜこの本に惹かれたかといえば、わたしの実家があった新小岩のことが書かれていたからなのです。
商店が少しまばらになったあたりが赤線跡。町名は江戸川区松島。亀戸で戦災にあった業者が立石と新小岩に移転してできた赤線地帯で、79件の業者、175人の女性がいたという。(本文より)
もうちょっと詳しく説明するとJR新小岩駅南口のアーケード街の屋根がなくなるあたりです。この辺りには今でも小さな飲み屋さんが数多く営業しており、当時の風情を残している建物も多少残っています。地元では「丸健(まるけん)」と呼ばれていました。
この地図は1962年当時のものなのですが、いやいやビックリですよ。懐かしい名前がたくさん書かれています。我が家はこの地図の左上にある「かっぱ」さんの隣でした。番地は921、当時の町名だと西小松川2丁目921番地です。
わたしの実家はオーダーの婦人服屋だったので、ご近所のお姐さんたちが服を作りに来てくれました。わたしが生まれたころ、赤線が廃止になりましたが、そこで働いていた女性たちは水商売をずっとこの地で続けていました。
地元の親分のお宅がこの地域にありました。興業系の親分だったので、錦糸町の江東劇場に出演する歌手や役者は必ずこのお宅に挨拶に来ていたそうです。
子供のころから、この辺りはなんだか怪しいなぁとは思っていたのですが、大人はそういうことをちっとも教えてくれないんですよね。この本でいろんなことがわかりました。
三業地とは何か。「芸妓屋」(置屋ともいう)、「料理屋」(料亭ともいうが、本来の料亭は新橋、赤坂、柳橋にある料理屋のことだけを言った)「待合」に三つの業種からなる街である。料理屋と待合か芸妓屋のいずれかだけの場合は二業地という。二業地から三業地に発展することもある。料理屋が待合を兼ねることもあったようだ。
三業地指定地制度は1920年に確立した。地元業者が組合を組織し、警察の届け出をして、公的に認められた遊興の地が「三業地」と呼ばれたのである。三業地以前の花街では娼妓もいて売買春が行われたが、三業地指定地制度以降の花街は娼妓を排除したので売買春は行われず、自由恋愛が行われるという建前だった。
この「三業地」、わたしは尾久と柳橋くらいしか知りませんでしたけど、昔はいろんなところにあったんですね。戦時中には大陸にもこの業界の方たちが軍部に頼まれて進出してたというのは、そういう時代だったんだなぁと感心するばかりです。
新小岩の隣の平井も三業地(平井三業組合)だったというのにはビックリです。コロナが収まったら痕跡を探しに行こうと思います。
亀戸天神のそばにあったのが「城東三業組合」です。この辺りには今でも黒塀の料亭があって、ちょっと名残が残っています。この辺りに実家があるという友人曰く「子供のころ、夕方にお風呂屋さんへ行くと芸者さんがいてね、子ども心にきれいだなぁって見とれてたの」だったそうです。
花街には様々な歴史があります。昔そういうものがあったということを隠そうとする人たちもいるけれど、忘れてはいけない歴史です。少なくとも、わたしは忘れずにいようと思っています。
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