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『赤坂ナイトクラブの光と影「ニューラテンクォーター」物語』 諸岡寛司 343

赤坂ナイトクラブの光と影「ニューラテンクォーター」物語

諸岡寛司(もろおか かんじ)

講談社

気がついたらいつも本ばかり読んでいた」で紹介されていた本

 ニューラテンクォーターは、ステージショーを主体としたナイトクラブの日本における先駆けで、海外の有名歌手を次々と出演させ、伝説的な社交場でした。赤坂のホテルニュージャパンの地下にあったこの店は、日本の政財界や外国の要人などが集う大社交場だったのです。この本の著者である諸岡氏は、この店の営業部長として、店の中で起きるあらゆることを仕切っていました。

 店の中にはステージがあり、そこで生バンドが演奏したり、マジックやダンスのショーなどが催されていました。ここのステージに立つのは超一流のアーティスト、ナット・キング・コール、トム・ジョーンズなどそうそうたる顔ぶれです。こういうアーティストを招聘していたのは「協同企画エージェンシー」現在の共同東京です。

 こういうクラブでは、どうしても暴力団などの事件が起きがちですが、この店ではそういうことはほとんどありませんでした。この店の裏には児玉誉士夫(児玉機関)が存在しており、そこにケンカを売ろうとする人などいなかったということなのだそうです。

 一般の人たちにこの店の名が一躍有名になったのは「力道山刺傷事件」ですが、あれは酒癖が悪い力道山が巻き起こした事件であり、彼を刺してしまった村田に非はないと諸岡氏が断言しているのが印象的でした。

 順調は営業を続けていたニューラテンクォーターですが、1982年2月8日に発生したホテルニュージャパンの火災が、この店の運命を狂わしてしましました。火災の後も営業を続けていましたが、結局は1989年5月27日に営業を終了しました。

 

 赤坂コパカバーナというライバル店の話もありました。当時インドネシアへの賠償問題の話し合いなどで、スカルノ大統領が頻繁にこの店に通っており、この店にいたデビ夫人と出会ったというのです。

 

 ホテルニュージャパンとニューラテンクォーターの関係はずっと順調だったのですが、ホテルのオーナーが横井英樹になってからの酷い扱いを嘆いているのがとても印象的です。ホテルが火災を起こしたときにスプリンクラーがほとんどなく、避難指示もしていなかったことが明るみに出て、このホテルの運営がとんでもないことになっていたことが明るみになったという、当時の報道を思い出しました。

 

 大人のための社交場であったニューラテンクォーター。こういう場所はもう生まれないのでしょうね。

3005冊目(今年343冊目)

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