『ヒルビリー・エレジー』 J.D.ヴァンス 25-220-3616
ヒルビリー・エレジー
Hillbilly Elegy
アメリカの繁栄から取り残された白人たち
J.D.ヴァンス
J.D.Vance
関根光宏(せきね みつひろ)山田文(やまだ ふみ)訳
光文社未来ライブラリー
米国 2016
私は白人には違いないが、自分がアメリカ北東部のいわゆる「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」に属する人間だと思ったことはない。そのかわりに、「スコッツ=アイリッシュ」の家系に属し、大学を卒業せずに、労働者階層の一員として働く白人アメリカ人の一人だと見なしている。
そうした人たちにとって、貧困は、代々伝わる伝統といえる。先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。
アメリカ社会では、彼らは「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首すじが赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている。
J.D.ヴァンスの家庭環境は、ひとことで言ってしまえば「劣悪」でした。母親は薬物依存者で、子どもの躾とは怒鳴り散らすことだと思っていて、それに怯える子どもたちの気持ちなど考えもしません。
子ども時代を一緒に暮らした姉のリンジーですら、父親が違いますが、母親がつき合った男たちがみんなとんでもない人間だったわけではないのです。母親は薬物依存で、情緒不安定で、結婚しては別れ、恋人を作ってまた結婚しては別れる、その繰り返し。J.D.と姉のリンジーはそのたびに名字が変わり、義理の兄弟がドンドン増えるのです。それでもJ.D.がかろうじて生きのびられたのは、リンジーと祖父母がいたからだったのです。
けれども、J.D.が祖父母と一緒に暮らしたいというのを母親は理解しない。いや、理解できないのです。彼女の両親である彼らに対して複雑な感情を持っていたということがJ.D.にわかったのは、ずっと後のことでした。
J.D.が育ってきた地域では大学へ進学する人はほとんどいないし、もし行けるとしても授業料が安い州立大学だけです。そもそも高校だってまともに行っていない人がかなりいる状況です。ですから、進学に関しても、お金に関しても、相談する相手がいません。J.D.が幸運だったのは、親戚に海兵隊へ行っていた人がいたということでした。
大学へ進学できるだけの成績を上げられるようになったのだけれど、J.D.にはお金の工面ができません。親戚の人から「海兵隊へ行ったらいいんじゃないか」とアドバイスされ、それが彼の人生を変えたのです。(アメリカでは、軍人として4年間務めると大学の学費分の奨学金がもらえるのだと、アメリカの友人から聞いたことを思い出しました。)
もちろん軍人になるのですから、戦地に送られ危険な目に合うことも、時には死ぬこともあります。それでも、生まれ育った貧しい世界から抜け出すには、これしかないとJ.D.は決断したのです。
海兵隊へ行って、身体を鍛えたり、規律を覚えたりするだけでなく、まともな家の子なら身に着けているだろう普通のことをいろいろと学びます。いつも身ぎれいにすること、きちんと歯を磨くこと、何を食べたら身体のために良いのか知ること、自制心を持つことなど。そして紛争地域では、自分たちよりも酷い生活をしているのに、感謝の気持ちを持つ人がいるということを。
海兵隊を除隊後、オハイオ州立大学へ入学し、更にロースクールへ進学することを目指します。イェールのロースクールなんて、学費が高くて無理だと思っていたのに、自分は低所得家庭の出身だから、奨学金だけで何とかなりそうなのです。この時だけは低所得者層の人間でよかったと思ったそうです。大学へ行ったおかげで、こういうことも知ることができました。
自分が育ってきた環境では、金銭的な問題だけでなく、他人に対する思いやりとか、口の利き方とか、ドレスコードとか、テーブルマナーとか、人間として当たり前のことを身に着けられないという問題があるのだとわかってきます。
自分の無知さ加減にJ.D.は驚きます。そうか、そういう知識や体験があるかどうかも、格差なのだと身に染みてわかったのです。
良い家庭、良い環境、良い教育、そういう中に身を置けばと、おのずと良い道を歩んでいけるのだけれど、最初にそのレールに乗っていなかった者には、良い道があると知ることすらできないのです。
前半のJ.D.の生い立ちを読んでいると、夢も希望もなく、ただ生きているだけです。とても今の彼のような人になるとは想像もできません。子どもでありながら耐えるということに終始する生活では、将来の夢など見られるはずもありません。
でも、海兵隊へ入隊してから、彼は少しずつ人間らしい生活とは何かを知っていきます。書類の書き方も、銀行預金口座の作り方も、体調管理も教わりました。そして、将来に夢を抱くことができるようになったのです。まるで別人のようです。
弁護士になったことも、この本の出版も、アメリカ合衆国の副大統領になったことも、これぞアメリカン・ドリームなのですが、彼のようになりたいと、上を目指すヒルビリーの子どもはいるのでしょうか? それは余り期待できないなと、この本を読んで思いました。そもそも親が夢を持っていないし、子どもに夢を託すとも思えないのです。
外の世界を見ることのない人にとって、そんなものはないのと同じなのです。J.D.だって海兵隊へ行って初めて知ったことだらけだったのですから。
トランプ政権は、アメリカの製造業を作り直し、ラストベルトの人たちに仕事を与えると言ってますけど、それはタダのお題目としか思えません。それは、「働くより失業保険をもらっている方が楽でいい」と思っている人を見たことがないからじゃないかな。「働いて豊かになる」ということさえ、信じられない人たちが大勢いるのだという、アメリカの闇をどうにかできるのはトランプではないということだけは確かです。
この本は、J.D.バンスの成功物語であるとともに、アメリカの格差の酷さをわかりやすく書いている物語です。今後、アメリカ史の参考図書となるのは確実です。
将来、彼は大統領を目指すのでしょうが、トランプがこれから作るであろう負の遺産を背負っていくのは、想像を絶する苦難の道だとしか思えないのです。それでも、目指すんだろうなぁ、偉大ではないアメリカの大統領を。
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