『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』 赤瀬浩 26-222-3981
江戸吉原遊郭、京都島原遊郭、大阪新町遊郭などと並び称された長崎丸山遊郭ですが、ここは他の遊郭とは全く違うシステムで運営されていました。
そもそも、なぜここに遊郭をという事ですが、これは地域振興というか、今でいうインバウンド招致のような側面があったのです。
長崎には資源も特産品もありませんでした。でも、開放的な気質の若い娘たちがいたのです。若い娘たちを外国人に売り、その利益を住民に回して、長崎という町を維持するという策だったのです。
町の安定は奉行所(幕府)の望むところであり、長崎の遊女に夢中になった外国人は制御しやすいという利点もあった。このようにして、長崎は「遊郭都市」となった。まさしく丸山遊郭は、都市長崎の中心であった。
吉原などの遊女たちは遠く離れて土地から連れてこられて人が多いのですが、長崎の場合はほとんどが長崎市中の出身だったので、家族との絆は途切れることがありませんでした。禿として務める年頃は、今でいえば小学生の少女ですから、実家へ洗濯物を頼みに行ったり、客からもらった贈りものを持っていったりしていたそうです。ですから遊女屋が娘を折檻したとか、不満があれば親が出てくるという事もあったとか。
そして、労働条件もかなり良いのです。丸山遊女の仕事は、夕方に始まり翌朝に終わります。江戸吉原などでは、夜だけでなく昼見世という昼から夕方にかけての仕事があったために、慢性的な睡眠不足と過労が遊女の健康を蝕んでいました。丸山遊女たちは朝から夕方までは休養や用事などにあてることができたのです。出島へ行く遊女たちも、夕方、島に入り、翌朝、島を出て丸山へ戻って来ていたそうです。そして、彼女たちには行動の自由がありました。町中を歩くこともできたし、実家へちょっと寄って来るという事もでできたのです。
「遊女は蔑視されない、一方経営者は肩身が狭い」こういう考え方があったからこそ、丸山遊郭は存続できたのでしょう。
唐船に乗ってやって来た清、ベトナム、タイ、インドネシアなどのアジア系の人のことを「唐人」と呼んでおり、彼らが丸山遊郭の初期のお得意様です。唐では女郎屋は禁じられているので、日本へ貿易という名目でやって来て、女郎にお金を使う人が多かったのだそうです。大陸から船で1~3日でやってこられるので、頻繁に来ていたようです。
次にやって来たのがオランダ人です。彼らは「脇荷物」として持ち込んだ私物を売ったり、遊女に贈ったりしていました。また遊女もそこから時には莫大な副収入を期待することができました。オランダ人は下級船員の唐人とは違い、会計上のトラブルは少なかったのです。
開国後は、ロシア人もやってくるようになりました。ロシア人の長崎滞在は、ウラジオストックが凍結する冬の間、艦隊を長崎港に停泊させて越冬するという長期滞在なので、滞在規模はかつてのオランダ人たちをはるかに超えました。長崎市街とは港を挟んで対岸にあたる稲佐郷にロシア船乗組員のために居住区を作り、後にはそこに遊女屋を作ってロシア人を迎え入れました。
「<ミリオンカ>の女 うらじおすとく花暦」という小説で、ウラジオストクの女郎屋は、長崎出身者が経営している店が多いという話があったのですが、それはロシア海軍が長崎へやってきたことから繋がっているのでしょうね。その辺りのことを書いている本ってないのかしら?
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