『八田與一 東洋一のダムを作った日本人』 許光輝、みやぞえ郁雄、平良隆久 26-253-4012
八田與一は、台湾の南部にある嘉南平野に烏山頭(うざんとう)ダムと水路を建設し、平原全体に水をいきわたらせ、この地を台湾数数の農地にしたのです。
八田與一がこの計画を立てた時、余りにも壮大な計画なので、周りの人たちは反対したそうです。しかし、この土地を豊かにすることこそが、ここに住む人たちを豊かにすることであり、それが台湾のためになるという強い意志を持った八田與一は、誰にも思いつかないような工事を計画しました。
工事は1921年(大正10年)から始まりました。キャタピラ式のパワーショベルなど、当時最新の大型機械をアメリカやドイツから大量に購入しました。この工事のために線路をひき、ドイツ製の機関車で、土石をつんだ貨物車を運びました。この本に掲載されている、当時使われていた大型機械などの写真からこの工事の大きさを実感することができます。
烏山頭の宿舎には、職員の家族を含めると1000人以上が暮らしていたそうです。働く人の娯楽にと、弓道場、プール、テニスコート、購買部などを作りました。さらに病院や学校も作り、台湾人も日本人も関係なく同じ教室で勉強したそうです。毎月映画も上演するなど、働く人たちの労働環境にも気を使われたそうです。
1930年(昭和5年)に、烏山頭ダムが完成しました。この大規模なダムはから嘉南平野を縦横にめぐる水路は16,000Kmにも及び、その巨大な水利構造である「嘉南大圳」は万里の長城以上なのだそうです。
ダム完成後、八田與一は台北で土木測量技術養成所(現在は瑞芳高級工業職業学校となっています)を作り、多くの台湾の方が学ばれています。1942年(昭和17年)、フィリピンの灌漑工事の調査のために乗った船がアメリカの潜水艦の攻撃を受け、彼は亡くなりました。
現在、ダムのそばにある八田與一の銅像は1931年に作られました。第二次世界大戦後、中国の国民軍が、日本の記憶を呼び覚ます記念碑を徹底して破壊したのを知った地元の人たちが、ずっと隠していたのだそうです。1981年になってようやく政府の許可が下り、元の場所(烏山頭ダムのほとり)に再設置されました。
夫を戦争で亡くした外代樹(とよき)夫人は、台湾を愛していて、ずっとこの地で暮らすつもりでいました。しかし戦後になって、日本への引き上げ命令が出ました。それを苦にした外代樹さんは、1945年9月1日に烏山頭ダムの放水口に身を投げたのだそうです。
八田夫妻の墓は、1946年(昭和21年)に地元の嘉南農田水利会の人々によって建立されました。
これほど台湾の人たちから愛され、歴史教科書にも載っている八田與一と、彼を支えた外代樹夫人のことは、とても大事な話だなと思いました。この本を読むまで、わたしは「八田與一」という人のことを全く知らずにいました。最近は日本の中学校の教科書で取り上げているところもあるそうですが、まだまだ、日本での知名度は低いです。もっともっと多くの人に知ってもらいたいと思います。
4012冊目(今年253冊目)
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